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先日お葬式に行ってまいりました。
私が大好きだった方です。
といっても、ほとんど詳細は覚えていません。
けれど、その方を思い出すときとても気持ちが優しくなり、感謝の念が湧いてくるのです。
不思議で仕方がありません。
多分、私の心が「大好き」と記憶しているのだと思います。
その方は、
私が通った幼稚園の園長先生です。
飯田慈光幼稚園の園長先生、高松喜代様がお亡くなりになりました。
当時は、私の母も仕事をしておらず、旅館も行っておりませんでした。
つまり、4人兄弟(姉妹)の末っ子で育った私は、多分兄弟の仲でも一番甘えん坊で尚且つ、甘やかされて育った子供だったのだろうと思います。とにかく、おてんばで高いところが大好き、そのくせ泣き虫だった・・・・と聞かされています。
慈光幼稚園での生活風景を、不思議と良く覚えています。
園のブロック塀に良く登って遊んでいた・・・
得意気に泥んこ玉をピカピカに光るまで硬く作って、お堂の下などへ隠していた・・・・
トランポリンが好きで、3,4回ジャンプしては「友達と交代」とされてしまうことがじれったくて仕方が無かった・・・・
夏のプールが楽しみだった・・・・
滑り台の上から何か物を落として、お友達に怪我をさせてしまった・・・・
1回だけだったけど、その時「とってもいけないことをしたんだと、2度としちゃいけない」と深く刻まれたのを覚えています。「危険」という事に「気付いた」最初だったようにも思います。
給食の時間、いつも「おばちゃ~ん、おかわり~」
と中庭の鳥小屋を回って、給食センターまで器を持って走って行っていた事・・・・
いっぱい、いっぱい思い出があります。
でも、何より大好きな記憶として残っていることがあります。
園内にあった園長先生の自宅にお泊り日があったと思います。
カレーを頂、屋上で星を見たと思いました。
その過ごした時間が幸せだったように記憶しています。多分園長先生と一緒にいられたからじゃないでしょうか?
それと、毎月1回だったか、年に1回だったのか、定かじゃないのですが、
仏教保育園でしたので、園内にあるお堂に集まる時がありました。
その時間が大好きだったように記憶しています。
お釈迦様のお話をしてくださったように思います。
釈迦様の誕生された日は、蓮の花が飾られたようにも記憶しています。
確か、歌も歌いました。
その時から、ずーっと心に残って覚えているお話があります。
「お釈迦様は、飢えた虎に自分の身体を食するように与えたのです」
確か、崖の下に虎がいて、崖から身を投げる姿の蒔絵を見せながら、私達にそのお話をしてくださったように思います。その絵が私にはしっかり刻まれているようなのです。
多分「慈悲の心」というものをお教えになったのだと思います。
でも、その後小学校、中学、高校も私はずーっと悩みや、辛い事があるたびに、このときに教わったのだろうお釈迦様のお話が物事の考え方の基本になっていました。辛すぎて、お釈迦様の行動には矛盾がある・・・・と、真剣に悩んだ事も覚えています。
卒業した後は、交流こそしませんでしたが、慈光幼稚園に通わせてもらえたこと、高松先生にお会いできたことは、私にとって幸せなことでした。
高松先生にとって見れば、大勢の園児との交流があったのですから、個人の私のことなど解らないことだと思います。それでも、そんなに大勢の子供達を面倒見ながらも、私1人、高松先生の温かな心に触れることが出来ており、寂しさなど感じない毎日を過ごしていたのだろうと思うと、本当にすごいことだと思います。
思い出しました、そういえば喧嘩か何かで泣いた子供は、時々園長先生のいる自宅にまで行っていたような記憶があります。「特別でいいなー」と、確かうらやましく思っていた自分がいました。
私は、今自分の子供にどうでしょう?
たった2人なのに、上の子供(麻琴)にはどうやらとっても寂しい気持ちを与えさせてしまっているようです。情けないことです。
久しぶりにお目にかかった、お葬式での高松先生はお年こそとられてはいましたが、やさしい笑顔に面影がのこり、私の潜在意識がよみがえってきたのか、深々と頭が下がる重いでした。
長居は出来ませんでしたが、いつまでもお側にいたい気持ちでなかなかお焼香の前を離れられませんでした。
最近の自分、ちょっとおかしいです。
確かに、心配事は減らないし、やらなければならないことも減らないし、・・・・・
相変わらず「大変」
と思うことばかりですが、今までと対して変わりないはずです。
それに、状況としては良い方向へ転換できそうな様子も見えてきています。
なのに、真太郎が泣いたり、麻琴が泣いたりすると、
イライライラ・・・・
という気持ちが収めされず、声に出して発散させるような事をしてしまいます。
子供が敏感に感じ取るようなことは、意識して表現を押し殺してきたつもりでした。
それなのに、自分の中で収められなくなってきています
これは、困った。
「私、限界に近づいているのかしら?」
なんて思ったりしてみたりして・・・・
「限界」なんて言葉を簡単に使うのは、やな事です。
「限界」なんて自分で自分を決め付けることは、誰も幸せにはなりません。
何か理由があるはずです。
それが、子供への罪悪感かな~と感じるところがあるので、今日はひとまず、気になる仕事も全て封印し、手を開けて子供と向かい合うことにしようと思います。
真太郎に初めての離乳食を食べさせました。
遊ばせて見たけど、やっぱりまだ寝返りが出来ません。
そろそろ出来ていい頃なのに・・・・
麻琴もご飯をなかなか十分に食べてくれません。
でも、ぐっと我慢して、一緒に塗り絵をして、ご本を最後まで読んであげました。(今日は途中でママが寝ちゃうことのないように・・・・)
順調に進んではいましたが、つまらないことでムカムカが募るんです・・・・
私の抜け毛が急に多くなってきたようで・・・・
そこら中にぱらぱらする、抜け毛、布団や洗濯機、お風呂場やソファー、掃除をしてもしても気になるし、日頃も時間をかけた掃除ができないな中で、気になる髪の毛のゴミ、
手串をあてたものなら、とどまることを知らないかのような抜け毛・・・・
主婦の大敵ですね。
長さがあるから余計に気になるのかと思うと、いっそのことバリカンで刈っちゃおうかしら?
とさえ思います。
そんな事を思って、子供と笑いあえたら、少し落ち着きを取り戻したように思います。
女性ってなかなか大変ですね。
ホルモンのバランスで、自分のコントロールが思うようにいかなくなってしまうところもありますよね。これを、「弱いからだ!」などと簡単にきめ付けず、受止めながら、時には楽も許しながら、時間の使い方を工夫してみたいと思います。
育児だけはやり直しが聞かないと思うと、母親の笑顔はとっても大事にしなければいけないことだと感じますので・・・・・
淵の森の会へ参加してきました。
1996年、バブル倒産で宅地開発されようとしていた雑木林を未来の子供達に残そうと、2つの自然保護団体と5つの自治会が組織をつくり、活動を開始。
会長に宮崎監督を迎えて募金活動を開始したところ多くの寄付が集まり、東村山市と所沢市に寄付し公有地化が見事に成功しました。駐車場だったところのコンクリートを剥し2つの山に積、全国から送られた苗木を700本植木したそうです。
人数が多くて、あっという間に作業が進みます。
私達は早朝4時に阿智村を出発し8時半に到着です。
そこから11時30分ごろには終了。
宮崎会長のお話には、この活動を通じて自然の生態系の力強さ、また奇跡から学んだこと等熱く語ってくださいました。
そして、100年計画の淵の森復活運動ということを伺いました。
麻琴や真太郎が20歳になる頃にはどんな森になっていることでしょう?
自然の力が作り出す命が、当たり前のように見ることの出来る世界であって欲しいのですが、自然保護活動・・・・などといった取組みが無くては残すことが出来ないようでは、私達人間の教育の内容を変えたほうが良いかもしれないとさえ思ってしまいます。
私の住む阿智村(昼神温泉)付近は、まだまだ自然が回りにたくさんある世界です。
この事実に価値を見出せる住民でありたいと思います。
昨日の朝のNHK連続テレビ小説を見ていて、昔の自分を思い出しました。
私は21歳の年に両親の経営する石苔亭いしだへ入社しました。
実はその翌翌年だったと思います。
私は旅館を逃げ出したのです。
今でも鮮明に覚えています。
当時の石苔亭いしだは、今よりも数倍お客様の入りこみ人数が多かったです。
お盆の忙しいお客様を送り出したときでした。
当時のルーム長だった、村上志津江さんに手紙を残しました。
何故、当時女将だった自分の母親ではなかったのか???
それを2つ目のきっかけに、母と私の関係は溝が出来たまま時がたちました。
その時は、散々悩んだつもりでいました。
でも、何にもわかっていなかった当時の自分にその後、気がつくことになりました。
初めての職場で、勝手な理想を掲げ、経営者だった両親を、私は散々けなしていたように思います。
また、旅館という独特な女性の職場の中で、女将の娘という事を乗り越えることが出来なかった自分を、回りのせいにしていたのだと、後に気がつきました。
当時私が逃げ出したのは、責任感と生真面目な性格が自分自身を疲れさせ、頑張りすぎたことにあるのだろうと今思います。
認められようと、朝から晩まで、また休みもとらず、私は頑張ったつもりでいます。その内、身体に蕁麻疹が出るようになり、突然涙が込上げしゃくりあげたり、通勤の道中で運転しながら嘔吐を繰り返し、また居眠り運転で自損事故を3ヶ月で3回程繰り返しました。疲れていたのでしょうね。
体が疲れると、心も疲れるものなのでしょう。
人間は弱いです。心も身体もつけれれば、自殺願望なんて当たり前のように湧いてきます。
結局また旅館へ戻ることを決心し、旅館を逃げ出した後3年目に出戻りを
21歳の時も、出戻りの時も、環境は決して私をウエルカムでは無かったです。
その時も、当時のスタッフは皆さん残っていましたのでNHKドラマの鉄平と同じです。
そう簡単に皆さんが受け入れてくれるはずもありません。
母だって私には声をかけません。
私は未熟だった自分を認めていたため、それから約6年ほどでしょうか、「先輩の皆さんの姿を学ぶ・・・・」という気持ちで「黙って黙々と仕事をする」という姿勢を心に誓い、過ごしてきたつもりでいます。
実際がどうだったかは良くわかりません。
仕事って、簡単じゃありません。
また、ゼロから立ち上げた経営者の方の尽力というのもきっと私にはまねは出来ません。
自分のそんな経験から学んだことは、今の私の自信になっていると思います。
努力が大切だということ
信念が大切だということ
己は未熟だということ
論語にありましたね、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。
ちょっと違うかもしれませんが、人間死ぬまで自分との戦いであり、学ぶ謙虚な姿勢を忘れてはならないのだと、私なりに自分の志を立てています。
こんな私に育ったのも、皆両親の背中を見てきたからだと感謝します。
昼神温泉郷にある甘味処「ひるがみ茶屋」が、村内産のキク芋の粉を練りこんだラーメンを開発したようです。
遊休農地対策で村はキク芋栽培に力を入れており、観光施設にはキク芋麺としてうどんを開発したのが2年前だったように思います。
しかし、このうどんがなかなか商品としてお客様に出せる物ではありませんでした。
ゆでるとこんにゃく麺のような食感だったと思うのですが、ぶつぶつと麺が切れてしまい見た目がきれいにいかないのです。
このラーメン、ちょと興味がありますね。
キク芋は血糖値を下げるとされており、健康にとってもいいそうです。
芋事態も大変生命力があり、栽培と一言で簡単に言いますが、一度植えたらほっといても生息を広げてしまうほどの生命力だと聞きました。
だから遊休農地によいと判断したのかもしれません。
キク芋ラーメンは、ふと麺で、つゆはしょうゆ味。
村民有志だ作る「にんにくチップ」とオイルを入れて香ばしさと甘みを加えたそうです。
是非、私も近いうちに試してみたいと思います。
菱田春草という日本画家をご存知でしょうか?
代表作としては「菊児童」「黒き猫」という作品があります。
今年、菱田春草の没後100年となるとされており、地域では盛り上がっています。
春草の生誕地整備として、約300坪程あったとっされる敷地は現在駐車場や住宅となっていて、案内板が1つ立てられているだけです。
先人が残した遺産に磨きをかけつなぎ合わせながら整備の完成に向けて募金活動なども行っている様子です。「地区丸ごと博物館」構想を掲げようとしています。
素晴らしいことですよね。
温泉地で考えると、黒川温泉のような取組みになるのでしょうか?
昼神温泉ももっともっと地域の皆さん、各施設の皆さんと一つの動きが始まるような取組みを見出し、地域全体の活性化、底上げが出来て行けたら、この観光不況も勇気付きながら過ごせるといった物です。
各施設の取組みも大切ですが、やはり長く人々親しまれるには、その地域の人々の魅力は欠かせないと思います。旅は出会い・・・です。
また、今後は「学べる旅」ということへの意識も高まるのではないかな~
と感じています。
久しぶりの積雪です。
こんなに雪らしい雪に出会えたのは今年初めてのような気がします。
年々の温暖化に、雪景色というのは貴重な景色のように感じるのは私だけでしょうか?
旅行をされる皆様には、確かに車の心配があり嫌煙される要因ではありますが、私は絶対に勧めたいです。
石苔亭いしだの客間から見ることの出来る雪景色の庭、言葉で言い表せない情緒を感じるはずです。これは、絶対感動に値します。
そして、雪の積もった露天風呂
自然が生み出す季節の景色に感動できる環境が私達の身の回りから減ってきています。
そんな中で、石苔亭いしだの雪景色は私は自信を持ってお勧めします。
麻琴が朝一番に外を見て言葉にしました。
「うわー、きれー」
子供の率直な、素直な言葉を聞き、なんとなく「ほっ」っとして、笑みがこぼれてきました。
神様、ありがとう・・・・
全てのものに、ありがとう・・・・・