今日、友人の通夜へ行ってきた。
仕事で悩みそれがきっかけで自ら命を絶ったそうだ。
1ヶ月ほど前、一人で愛車のバイクで旅館を訪れ、たわいもない話をして別れた。霊前にはその時かぶっていたヘルメットとグローブが飾られていた。奥さんの話から、4月の早座祭りを2人で見に来てくれていたことを知った。私や若女将が会場を走り回っているのを遠くから見て、忙しそうだから声をかけずにおこうと言って帰られたそうだ。
人がいなくなる。命が消える・・・とはどういうことなのか。
しばらく祭壇に飾られた友人の写真を見ながら考えた。
私にもいつかその日は来る。私の妻にも、生まれたばかりの私の娘にも必ずその日は来る。「生きる」とは生まれてから命が消えるまでのことを言うのだろうか。「生きていた」とはそこにその人が存在していたことを言うのか。
老衰で静かに命の火を消す人もいれば、自分の命の火を自分で消す人もいる。それも「生きた」ということかもしれない。
でも「生き抜いた」ことではないよ。
どんなに辛いことがあっても、どんなに悔しいことがあっても、やっぱり生きていなくちゃいけない。会社なんて辞めちゃえばよかったんだ。愛車のバイクでガソリンなくなるまで走ってみればよかったじゃん。悔しかったら大声で叫べばよかったんだ。つきあったよ。
「生きる」ことは簡単じゃない。それでも生きて生きて生き抜かなくちゃいけないんだ。きっと。
生きてるうちにこんな話ができたらなにか変わったのかな。
まだ死んじゃいけなかったんだぞ。友よ。
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