今日、月に一度の全体ミーティングがありました。その中での若旦那の話です。
「“死”について考えてみたいと思う。今、アメリカでは尊厳死についての議論が巻き起こっているが、“死”を語るときに、まず考えなければいけないことは、その裏側にある“生”である。
「生きる」とか「生きている」とはどういうことを言うのか?それは、自分の精一杯の力を込めて「自分はここにいます。」と叫び続けていることだ。そして、幸せな“死”とは、「たしかにあの時、あの場所に、そいつは生きていたよ。」と、まわりの人が覚えていてくれることだ。それが、自分が確かに生きていたという証になるから。
私たちの旅館もお客様に覚えていただいてこそ、はじめて旅館として生きるのである。お客様にとってかけがえのない旅館になったときこそが、私たち自身がこの「いしだで生きていたんだ」という証になる時なんだ。
一緒にこの旅館で生きている証をつくろう。」
生きながらえることだけが、“生”だとは思えません。なにをもって“死”と言うのかも、今の私にとっては明確な答えを出すことができません。しかし、若旦那の話を聞いて、私が“死”を迎えるときは、やり残すことなく幸せな気持ちでその時を迎えたいと思いました。
それには、「今を精一杯生きること」それこそが大切だと思いました。
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